呪われし者の書 1.1

チャールズ・フォートの"The Book of the Damned"が日本語訳されないのに業を煮やして序盤を一部翻訳しました。とはいえかなりガバガバだし原本もとうに著作権が失効してpdfで読めるので流し読みで雰囲気を掴むのにしか使えないかと思います。誰か翻訳してくれ

 

The Book of the Damned

呪われし者の列。
この呪われし者というのは、排斥された者という意味である。
我々は科学により排斥されたデータたちの列について考えていきたい。
呪いをかけられた者の大群が、私の発掘した青白いデータを先頭に行進していく。あなたはそれらに目を通していく—もしくはそれらが行進していく。土色の者がおり、燃え盛る者がおり、腐敗した者がいる。
屍が、骸骨が、ミイラが、呪わしい生を送る仲間に命を吹き込まれ、ぴくぴく動き、よろめいている。巨人たちが寝息を立てながらも歩いていく。理論が、ぼろきれが、無秩序の精と腕を組んで、ユークリッドのごとく通り過ぎていく。小さな売春婦があちらこちらを飛び回る。多くの道化がいる。だが社会的に高位な者も多くいる。暗殺者もいる。青白い悪臭が、痩せ細った迷信が、ただの影が、生き生きした悪意が、気まぐれと好意がいる。神経質な者、衒学的な者、奇妙な者、グロテスクな者、誠実な者、不誠実な者がいる。
傷跡が、笑いが、形骸化した礼儀に則り辛抱強く組まれた腕が見える。
とても立派な、だがともかくも主張された者たちがいる。
その総体は威厳に満ち、無秩序である。総体としての声は反抗的な祈りである。だがその魂の全体は一つの方向へと向かっていく。
これら全ての者に呪われているとの宣告を下した権力は、独善的な科学である。
だが彼らは行進しつづける。
小さな売春婦たちが飛び跳ね、奇人たちは注意をそらされ、道化たちはおどけのリズムを狂わされる—だが列全体は強固であり、通りすぎ、通りすぎ、通りすぎていく者ら、やってきて、やってきて、やってくる者らの印象は依然として強い。
脅しつけもからかいも無視もせず、大きな集団へと寄り集まって過通りすぎ、通りすぎ、ひたすらに通りすぎていく無抵抗な者たち。

ということで、呪われし者という言葉を排斥された者という意味で用いた。
だが排斥されし者という語はいつか排斥する側に回るだろう者をも指し示している。
それともあらゆる排斥せし者は、いつか排斥される側となるのかもしれない。
そして排斥されし者は、いつか排斥せし側へ—。
だがもちろん、排斥しうる者は排斥され得る者でもある—。
排斥されし者といつか排斥され得る者との間に生じる流れ、あるいは一般には奇妙にも「存在」と呼ばれる状態は天国と地獄の周期変動である。呪われし者はその地位に甘んじない。地獄に落ちる前に救済が訪れる。我らが呪われしぼろ屑たちはいつか小奇麗な天使となるであろう。そしてしかる後に元の場所へと戻るだろう。

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いかなるものも他の何かを排斥しない限り自身を保つことはできないと言える。一般に「状態」と呼ばれるものは何であれ、多少の差はあれ必ず受容されたものと排斥されたものとの明確な差の現れに伴って精巧となる。
だが明確な差異など存在しないと言える。あらゆる物事はチーズの中心に巣くうネズミと虫のようなものだ。ネズミと虫、これほど異なる二者はいない。彼らはそこで一週間過ごし、あるいは一か月そこにとどまる。そしてどちらもチーズの変質のみをもたらす。我々は皆ネズミや虫であって、すべてを包括せしチーズの異なる現れに過ぎないのだ。
また赤は黄色と比べて明確な差異はないと言える。これは鮮やかな黄色によって計量しうるあらゆるものの異なる計量法でしかない。赤と黄色は地続きであり、混ざり合えばオレンジとなる。
よって、例えば黄色と赤を基準として、科学があらゆるものを分類し、赤いものは正しいものとして受容し、黄色いものは間違いや幻想だとして排斥しようと試みるのなら、オレンジ色の境界は連続性を提供しており、設けようとしている境界の両側に位置しているのだから、間違っていて無茶苦茶でなければならない。
これからの話で、次のことを痛感するであろう。
分類、または受容と排斥の基準として赤と黄色よりも理にかなったものが考えられたためしはない。
多様な基準により科学は多くのデータを受容してきた。そうしてこなかったなら、いかなるものももっともらしいとは思えなかっただろう。多様な基準により科学は多くのデータを排斥してきた。そして、もし赤と黄色が連続ならば、受け入れるためのあらゆる基準が退けるためのあらゆる基準と連続ならば、科学は受け入れられた物事とつながったものをいくらか排斥してきたことになる。赤と黄色を、混ざり合ってオレンジとなるものを基として、我々はあらゆる実験を、あらゆる基準を、意見のあらゆる構成を定めている—。
あるいはどんな主題に基づくどんなにはっきりした意見も、判断の基準となる明確な差があるという欺瞞による幻想なのだ—。
あらゆる思考の探索は何かのために行われてきた—これは明確な事実・基準・一般化・法則・理論・前提であり、これらの中で最良のもののいくらかは自明だと言われてきた—その一方、我々は論拠という言葉で他の何かによる助けを意味する—。
これは冒険である。だがいまだかつて達成されたことのない冒険である。にもかかわらず科学はそれがすでに達成されているかのように振る舞い、取り決めを行い、吹聴し、非難を行ってきた。
家(house)とは何であろうか?
明確な差が存在しなければどんなものであれ、他のあらゆるものと明確に区別し、それが何であるのか言えないはずである。
人が住んでいれば納屋は家である。居住が家であることを担保するのなら、建築の様式は関係しないことになり、従って鳥の巣も家だと言えよう。人が占有しているかどうかは基準とはならない、というのも我々は犬小屋(dog's house)という語を用いるからである。また素材も基準たり得ない、というのも我々はエスキモーの雪の家という語を—あるいは貝殻はヤドカリの家であるという文を—貝殻を作った貝についても同様に—用いるからである。もしくは、ワシントンのホワイトハウスと海辺の貝殻のごとく明確に異なるように思えるものも連続していると考えられるのだ。
よって、例えば電気とは何なのか、熱や磁力や生命とはっきり区別した上で答えることは誰にもできない。形而上学者、宗教学者、生物学者らは生命を定義しようと試みてきた。彼らは失敗し続けてきた、というのもはっきりと定義できるものがないからである。どんな点でも化学作用・磁気・巨視的な運動と言えないような生命現象はないのだ。
濃紺の海にある白サンゴの島々。
これらは異なっており、独立し、それぞれの間に明確な差異があるように思われる—だが全ては同じ海底からの射影に過ぎない。海と陸の違いは明確ではない。あらゆる水には土が含まれ、あらゆる土には水が含まれる。
よってあらゆるものの間が連続的であれば、それが他の何かの射影であるならば、机の脚がそれ単体で成立する概念でないのと同様、あると思しき物事は全く意味をなさない。もし我々が周囲の環境と連続であれば、我々の誰も物理的な意味で真に人間であるとは言えない。もし我々が周囲の環境への依存関係を表現することしかできないのなら、我々の誰も精神的な意味で真に人間であるとは言えない。
今述べたことには二つの側面がある。
従来の一元論、あるいはあらゆる「物」は固有の本性を持つとする考えは根源たる何かの射影に過ぎず、本当は固有の輪郭など持っていない。
だが単なる射影にせよ、あらゆる「物」は固有の本性を否定する根源から分離しようともがいている射影である。
私はある連続した繋がりを想像している。それに関わる全てのあると思しき物事は異なった表現に過ぎない。だがその中のあらゆる物事は分離し実在する物事になろうという、あるいは実体・明確な差異・決定的な境界線・修正されない独立—または人間活動において人間性・魂と呼ばれるもの—を確立しようという試みの局所的なものである。
自身を実在する・明確な・絶対的な体系・政府・機構・自己・魂・実体・個として確立させようとするあらゆるものは、境界線を引くことでのみそう試みることが出来る。その境界線は自身にまつわるものであり、あるいは自身を構成するものの受容とあらゆる他の「物」の卑下・排斥・分離にまつわるものである。
そうしないのであれば、その存在は認知されないであろう。
そうしないことは、海にいくつかの波を含むような円を描き、連続する他の波とは明らかに違うのだと主張し、受容した波と排斥した波の明確な差を保持することに生涯を費やす人のごとく、誤った・勝手な・無駄な・ひどいふるまいであろう。
我々に認識可能な全存在は、全体においてのみ実感される理想により部分に生命を吹き込んだものである。
あらゆる排斥が間違っているということを前提とすれば、これは受容されるものと排斥されるものが常に連続だからである。我々に知覚できる存在と思しきものが全て排斥の産物であれば、我々に知覚できるもので実際にあるものはない。全体のみが実際にあるものである。
この様な理想・目的あるいは過程の一つを表明したものである現代科学には特別な関心がわく。
判断に用いるに足る明確な基準がない以上、現代科学の行ってきた排斥は不当である。独自の疑似的な基準によって、選んだものと同等の権利を有するものを排斥してきたのだ。